
今回の書評は『天才はあきらめた 山里亮太著』だ。
ご存知のとおり、お笑いコンビ『南海キャンディーズ』として、活躍している山里氏である。
この本はひと言で言えば「劣等感のかたまり」と表現できるだろう。著者の心を隠すことなくさらけ出している。
コンビ結成など芸人としての山里亮太を生い立ちから追った内容となっている。
「劣等感」という言葉に反応してしまう人にオススメの本である。
天才はあきらめた、すべての感情を燃料に

天才はあきらめた。だけどその瞬間、醜い感情は一気に自分の味方になった。その感情を燃料に変換させるワザを使うことで、努力というしんどい行動が簡単にできるようになったから。
人は自分のことを天才であってほしいと願うものだ。他の人とは違う、何か特別なことを成し遂げる人間なんだと。
しかし、ほとんどの人が天才ではないのだ。ごく普通の人だ。
それに気付くか気付かないか、もしくは気付かないふりをするかの違いだけだ。
山里氏は早くに悟った。自分は天才ではないと。そして、そこに生まれる感情をすべて燃料とし、努力したのだ。
おそらく多くの人が自分は天才か何かでいつか何かを成し遂げると考えて、特に努力もせず一生を終えるのだろう。
天才ならばそこまで努力をしなくても成功するからだ。
しかし、天才などいないのだ。
成功した人はすべからく努力している。努力を続けることができる人のことを天才と言うのだと思う。
あなたは何かを続けることができているだろうか?
自分は何者?

自分は何者かになる。そんな、ぼんやりだけど甘い夢のような特別な何かを容易に見つけられて、何者かにだどり着くために必要な労力を呼吸するようにできる人、それが天才なんだと思う。
天才という言葉を聞くと、まず最初に頭に浮かぶのが野球選手のイチロー選手だ。
前人未踏の記録をいくつも成し遂げ、今もメジャーリーグで活躍する超スーパースターだ。
だが、イチロー選手も天才ではないのだ。
子どもの頃から誰よりも練習し、それを続けてきたから今があるのだ。
結果だけ見れば天才だが、判断するときはその過程を見て、その努力の総量を見て天才と言わなければ正しくないのだろう。
呼吸するように、それはもうその労力がその人の天職か、もしくは好きなことではないと呼吸するようにはできない。
ただ、思うのは、みんなそれぞれが日々何か努力をしているということだ。
何も努力していない人というのは皆無だ。
あなたも今日何かがんばったのではないか。
がんばったと思えないのは、そういった努力の成果は即効性はなく遅効性だから、あとにならないとわからないもの。
イチロー選手もいきなりヒットをたくさん打てるようになったわけではない。
天才でも何者かでもないけど、日々自分の行動を認めてあげたらいいのだと思う。
これまで書き殴ってきた復讐というガソリンたち

本書の中には山里氏が今まで書き殴ってきた言葉たちがいくつか掲載されている。
その中のひとつを紹介しよう。
養成所で「関東人おもんな」と言ってきた奴全員許さない。売れて、すり寄ってきたときに名前忘れてる感全力で出す。
このようなネガティブで暗い言葉が並んでいる。是非読んでみてほしい、きっと笑ってしまうから。
妬み嫉み、怒り哀しみ、あらゆるものを吐き出しているといった感じだ。
ただこれを読んで感じたのは、山里氏だけでなく他の人たちも同じようなことを思っているのだろうということ。
思っていてもただそれを表現しないだけのこと。
その反面、すべてを表現してしまうことは逆にすごいと思う。
こういった言葉を吐き出してしまうとそれに対する反感が生まれる。山里氏はその反感をまた燃料にしているのだろうか。
それとも書き殴って吐き出さないと自分の心がもたないからなのだろうか。
どちらかはわからないが、負の感情を惜しげもなく表現できるというのは、ある意味最強である。
解説:ぼくが一番潰したい男のこと 若林正恭
最後に、解説を書いたオードリー若林氏の言葉から一部引用して締めるとしよう。
彼が言われたら一番困る言葉であり、一番言われたい言葉をもう一度言おう。
「山里亮太は天才である」
天才とは、尽きない劣等感と尽きない愛のことなのだから。
自分では自分を天才だと気付くことはない。自分の嫌な部分を知っているのはほかならぬ自分だからだ。
しかし、他人から見れば羨ましいほどの才能を持っているように見えるもの。
それが山里氏と若林氏の関係なのだろう。
彼らはお互いがお互いを認めている仲間であり、強敵なのだろう。
