
今回は、オードリー若林氏のインタビュー記事を読んだ感想を述べてみたいと思う。
ツイッターを見ていたら、クレメア氏がこんなツイートをしていたのでこの記事を知った。
「もう間もなく、マウンティングはダサいことになると思うんですよ。どんだけ自分が没頭できるものを持っているかということが大事な時代に、そろそろなってくる気がしています。」
この感覚わかる
選べる環境が多様化してきてるのを感じるなあhttps://t.co/bQl7nlreBt— クレメア@世界観プロデューサー (@cremea_tw) 2018年11月19日
私もコメントしてみた。
いいインタビューだなぁ。
若林は多才。春日は若林とじゃなきゃ売れなかっただろうけど、若林は横に変なヤツを置いておけば誰とでも売れたと思うほど、ツッコミうまい。 https://t.co/JSo4CWzxNf
— PANDA (@tsutomeninpanda) 2018年11月19日
この記事は、若林氏の新著「ナナメの夕暮れ」が10万部を突破したことから、書かれた記事のようだ。
「もうすぐ、マウンティングがダサい時代が来る」
これは若林氏の言葉で、記事のタイトルにもなっている言葉だ。
「マウンティング」とは、会話の中で相手よりも優位に立とうすることだ。マウンティングの立場を取ろうとする人はSNSの中だけでなく日常生活でも多くなっているようだ。
その要因としては、これだけインターネット社会が普遍的なものになった中で、いわゆる「平均値」のようなものが無意識に認識されているからではないだろうか。
こうするのが当たり前、こうじゃなきゃダメだ、というような数値には表すことのできない平均値である。数値で表せないからこそ、その判断には差異が生じる。
そこでマウンティングする人が現れる。
元々その判断には差異があるから、マウンティングしたところで、どちらが正しいかなどわからない。マウンティングされたほうが正しいことなど、星の数ほどあるだろう。
今まではグローバル化の名の下に、価値観や文化を共有することが世界の進むベクトルだったが、これからはまた「個」の時代に移っていくのだろう。それはそうなるように人々が望むからだ。
これからは、ある種村社会のようなコミュニティの中におさまろうとする人が増え、そういった小さなコミュニティがたくさんできる時代になると感じている。
小さい頃から自分がダメすぎて、そういう劣等感をごまかすために、文化祭でステージに上がる人たちを『面白くもないのに』と拗ねて見ていた。スタバでカッコよく注文する人とか、ハロウィーンではしゃげる人とかを鼻で笑いながら見ていたのも、全部そんな自意識から来てたんですよね。
斜に構える人も多いのだろう。それはそのほうが楽だからだ。言い方を変えると斜に構えているほうが傷つかなくて済むからだ。
ここを読んで、私もそんな人たちを見て鼻で笑っているほうだ、と気づいた。結局なぜそうなるかと言えば、自分に自信がないからだ。自分に自信を持っている人は斜に構える必要なんてないのだ。斜に構えるのは、弱者の最終兵器なのだ。そのリーサルウェポンを取られてしまったら私たち弱者は生きていくことができないかもしれない。
女性って、イルミネーションとラテアートが好きで、結果を出してない男が嫌いなんだ』って、マジで思ってたんです。
この考え方はおもしろい。ただの偏見ではあるが、実際にそう思っている女性はいるだろう。だが世間一般のほとんどの女性はそんなことを気にしているわけがない。それほど人に興味はないものなのだ。たいして知らない男たちが結果を出しているかいないかなど、全くもって気にしていないだろう。
これも自信のない男が勝手に不安を膨らませ、あり得ない女性像を作り上げただけの話である。
かっこ悪いって、何だか楽しい
若林氏は歳を重ねたことで、ダサくいることも楽しいと思えるようになったとのこと。若い頃はマウンティングを取ろうとして、それ自体を楽しんではいたが、歳をとるとくだらないことが楽しいと思えるようになるようだ。
要は、バカになれ、ということなのだろう。この言葉は最近よく聞く言葉だ。おそらくみんながみんな平均点を取ろうとするから、突出した人が出にくくなっているのかもしれない。突出して目立てば、叩かれてしまうのは目に見えているから。それでもバカになり人がいるやっていないことをやることが本当の意味での人生を楽しむということなのだ。
ハングリーであれ。バカであれ。
スティーブ・ジョブズの言葉はやはり正しいのだと、いつもこういった話が出てくると思い出す。
