
今回の書評は、「ナナメの夕暮れ」だ。お笑いコンビのオードリーのツッコミ役である。春日のとなりにいる人、と過去には言われていたが、最近は番組の司会をやるなどしてその才能を発揮している人物だ。
まず、まえがきから若林氏の言葉を引用しよう。
ぼくはずっと毎日を楽しんで生きている人に憧れてきた。
ずっと、周りの目を気にしないで自分を貫ける人に憧れてきた。
それは、一番身近な相方であったり、テレビで共演する明るくて前向きで失敗を引きずらず、頭が良くて劣等感を感じさせない人だったりした。
なんとか死ぬまでに、そういう人物になりたいと願ってきた。
だけ、結論から言うとそういう人間になることを諦めた。
では、内容を見ていこう。
ナナメの夕暮れを読んだ私の感想
まず「ナナメの夕暮れ」を読んだ私の全体的な感想を述べよう。
オードリー若林の世の中へのツッコミ

多様化された世の中では自分の中の正解に自信が持てなくなる。なんとなく正しいことを言ってそうな、有名人のコメント、Twitterのアカウント。誰かの正論に飛びついて楽をする。自分の中の正解と誰かの正論は根本的に質が違う。
もちろん、人の意見など聞かないという極端な話ではないし、自分の意見を臆せずに吐き出そうという単純な話でもない。
自分の意見は殺さなくてもいいということだ。
最近、正論という言葉を飽きるくらい聞いている気がするが、「なんとなく正しいことを言ってそうな」言葉に人は引き寄せられてしまうのだろう。炎上目的か否かはわからないが、おそらく批判が来ることをわかってあえて正論を言っている著名人は意外にも多い。だからツイッターのタイムラインを見ていると疲れることがある。正論疲れ、と言えるだろう。
ここで大事なのは、誰かが正論を言うのを止めることはできないし、それを見たり聞いたりするのも情報化社会の中では避けられないこと。山奥で隠居生活でもすればいいが、それは現実的にはできず、正論との向き合い方が大事だ。
それには若林氏が言うように、自分の意見を殺す必要はないということだ。もっと言えば自分の意見を表現する必要もないけど自分としての意見を持つことは自由なのだと自覚すること、これが必要だ。
誰かの何気ない言葉に、心を引っ張られそうなときは、自分としての意見は何なのか、自分の心に問うべきだろう。安易に「いいね」や「リツイート」しないように。
オードリー若林が思う「明るくて前向きな人間」と「暗くて後ろ向きな人間」

明るくて前向きな人間は、暗くて後ろ向きな人間を無視してぐんぐん進む。
一瞥もしない。
明るくて前向きな人間は、暗くて後ろ向きな人間を無視して、明るくて前向きな人間と恋をして飯を食って踊る。
なぜ、自分だけがこんなに怖いのか。
こんなに気にするのか。
こんなに疲れるのか。
この部分にも超同意してしまった。
例えば、自分がケガをしたとき、風邪を引いたとき、精神的につらいことがあったとき、そんなとき思うことは自分と他人はこういったものの感じ方が違うのだ、と思っていた。
誰かがケガをしてもあまり痛そうにしない。だが私がケガをすると痛いのだ。泣くほど痛いのだ。なぜこうも痛みへの感じ方が違うのかと疑問に思っていた。風邪を引いて熱があっても普段と同じ生活をしている人がいる。だが私が風邪を引き熱が出ると、動けなくなるほど身体がきついのだ。何か精神的につらいことがあっても他人は数分後には平気な顔をしているのだ。だが私がつらいことを経験したり言われたりすると、しばらく引きずるのだ。
絶対、自分と他人は物事の感じ方が違うとずっと思っていた。他人の身体に入り、痛みの感じ方、心の傷み方、を感じてみたいと思ったことがあるほどだ。
確認のしようがないが、おそらく痛みの感じる度合いというのは人によって違うのは間違いない。だから、根性がないとか、我慢しろとか、勇敢でない、などの言葉はそういう人にとっては辛辣である。だから、発言には気をつけよう。
若林氏は、注射、飛行機、犬、が怖かったらしいが、それが今は平気になったようだ。それは経験から学んだからだと氏は言う。ただ、そんなふうにころっと変わってしまう感情に、「なんて残酷な感情なんだ」と嘆いている。
ナナメの夕暮れのあとがき
最後に、「あとがき」から一文を引用して締めるとしよう。全編通してネガティブな視点のエッセイだったが、私は大変興味深く読むことができた。やはり感覚は似ている。
“合う人に会う”ためならこんなぼくでもそれはがんばれる気がする。
