
今回の書評は『お母さんの「敏感期」モンテッソーリ教育は子を育てる親を育てる 相良敦子著』だ。
子育てのヒントとなる事例や対処法が書かれているので、今まさに子育て中のママにオススメの本である。
Contents
はじめに:敏感期とは
まず敏感期について説明するため、「はじめに」からひとつのエピソードを引用しよう。
今朝、電車の中で、赤ちゃんがむずかっていました。お母さんは、なだめようと抱っこするのですが、赤ちゃんはいやがってずるずると床に座りこみます。お母さんは、何度も抱っこするのですが、やはり赤ちゃんはいやがっています。「いったい何がいやなんだろう」と私はその行動をじっと見ていました。すると赤ちゃんは床に座りこんだあと、よいしょ、と立ちあがり、電車の揺れにからだを合わせました。そしてなんともいえない喜びの笑顔をしました。私はその喜びの顔を見て、「ああ、この子は立ちたかったんだ」とわかりました。けれども、その、赤ちゃんの顔を見ていなかったお母さんは、いつまでも、抱っこしようとして、イライラしていました。この赤ちゃんは自分で立つ力を獲得する敏感期にいたのですね。赤ちゃんを理解してあげることはむずかしいけれども、ちょっとした知識とゆとりがあるだけで、赤ちゃんの喜びをわかってあげ、それを大切にしてあげることもできるのでしょうね。
敏感期とはもともと生物学の用語で、すべての生物の幼少期に一定のことに対して感受性が特に敏感になる短い期間のことを言うそうだ。
これを知っているかどうかで子育てが楽しいものかたいへんなものかを分けることになる。
ポイントは敏感になる期間は非常に短いということだ。そこで子どもの感性を磨いてあげるよう親が促してあげれば子どもはのびのびと育つだろう。しかし、その短い期間を逃すとそれは子どものせっかくの成長のチャンスを逃すことになる。
その敏感期を中心に考えられたものが「モンテッソーリ教育」ということだ。
モンテッソーリ教育はなぜ生まれたか?
モンテッソーリ教育は、マリア・モンテッソーリという女性の名をとってつけられている。
女子医学生としてローマ大学に在籍していたモンテッソーリは挫折感に打ちひしがれ、研究室をあとにした。しかし帰る途中で子どもを連れた女性の物乞いに出会ったときに、モンテッソーリの考えは変わった。
このお母さんが、哀れな声でモンテッソーリに物乞いをしているとき、そのそばにいる女の子をふと見たモンテッソーリをふと見たモンテッソーリは、ハッとしました。その女の子は、お母さんが物乞いをしていることや、今日食べるものがないかもしれない惨めさとは無関係に、一枚の紙切れを手で扱いながら深く集中していたのです。
その顔は充実して輝いていました。その姿を見たとき、モンテッソーリは、なぜか「ハッ!」としたのです。
この経験からモンテッソーリは、二度と医学を捨てようとは思わなかった。
子どもというのは純粋で無邪気だ。この物乞いの話を読み、深く考えさせられた。物乞いをしていること自体、悲しいことだ。そこに至る経緯はわからないが、決して幸せとは言えないだろう。
しかし、それは2歳児の女の子には関係なかったのだ。ただ目の前にある紙切れに神経を集中していたのだ。この健気さに心を打たれた。
母親と居られるからそれでいいと安心しているのかもしれない。もしかするとそれすらも関係ないのかもしれない。ただ目の前のことに没頭できる能力をこの小さな子どもは持っているのだ。
この瞬間を逃してはならないのだ。子どもが何かいたずらめいたことをしている場合、親はそれをやめさせるだろう。しかし、そのとき子どもは100%集中している状態なのだ。それがダメだということはあとで教えればいい。今はただ目の前のことに集中させてあげるべきなのだ。紙切れに集中していたあの女の子のように。
子どもが歩行にいたる道

乳児が歩行にいたる道は4つの重要な段階に分けられるとのこと。それに関する部分を引用しよう。
第一段階 「移動なき運動」
第二段階 「腹ばい」
第三段階 「四つんばい」
第四段階 「歩行」この事実の中でもっとも本質的に大事なことは、「新しい段階へと順調に入っていけるかどうかは、その前の段階をうまく終了してきたかに、全面的にかかっている」。
ですから、おけいこごとや塾通いを、このような脳の発達の部位と順序などにおかまいなく、大人が勝手に「子どものために」「将来のために」「受験のために」「競争に勝つために」などの大義名分で押しつけてしまえば、優秀な頭脳どころか取り返しのつかぬ粗末な頭脳にしてしまうことだってありえましょう。
この章を読んで耳が痛い親は多いのではないだろうか。子どものためを想い、あれこれ教育を施そうとしているであろうが、それが逆に子どもの脳の成長を妨げている可能性があるということだ。
良かれと思って、この言葉はいろいろな場面に登場する。ある種の正義感を持って人に接するわけだがこの正義感がときには悪になるのだ。
子どものことについても同様のことが言える。子どものためを想いしたことが実は逆効果だったとわかったら、親はショックだろう。
だがそれ以上にショックなのは子どもだろう。おそらく子どもが知ることはないだろうが、子どもが大人になったとき親から受けた教育によって何らかの不利益を被っていたと証明されることがあるなら、親であるあなたは今子どもにどんな教育を施すだろうか。こうなると対応は変わってくるのではないか。
子どもは親の所有物ではない。ひとりの人間だ。教育段階からしっかりと個人を尊重した対応が必要なのだろう。
子育てをしていて、いつも「これでいいのだろうか?」と自信がないのです

敏感期を充実して生きた子どもが生涯にわたって豊かに生きることができるように、若い母親時代は、一生に一度の「お母さんの敏感期」というすばらしい恵みの時にいるのです。この時期は、子どもの中に「神の似姿」ともいえる尊い不思議な力を見ることさえでき、だからこそ、子どもに深い畏敬の念をもったり、子どもの生命につかえるという謙虚な実感をもつことができます。わが子が幼い日々に、そんな実感を幾重にもおぼえつつ生きてきたお母さん、生涯にわたって子どもの真の味方・理解者となる得るのです。
子育てに悩まない親はいない。人生において数回しか経験しないことであり、且つ、おろそかにはできない重要任務なのだから悩まないわけがないのだ。
子どもが敏感期なら母親も敏感期なのだ。だから子どもと一緒に学べばいい。間違うこともあるだろう。その過ちも含めて子どもと学んでいけばいいのだ。
本書では子育てのヒントとなる方法が紹介されているが、それらを実践し、子どもの敏感期に向き合うことで、母親としての自信を持つことができる。もちろん父親にも言えることだろう。
自信がなくて当たり前。そんなときは誰かに相談したり、本に頼ったり、あれこれ工夫してみたり、そんなことを楽しみながらできたらそれがいちばん子どもには良い影響を与えるのではないだろうか。
まとめ、お母さんの「敏感期」モンテッソーリ教育は子を育てる親を育てる
最後に「あとがき」から著者の想いを引用して締めるとしよう。
本書ではイラストを使って手作りおもちゃなどの解説もあるので是非参考にしてほしい。
現代の家庭のあり方は昔とちがっていますが、母親がわが子のためにしてやれることの本質は変わっていないはずです。母親としての敏感期にいるお母さんが、その糸口かヒントを本書の中に見出してくだされば嬉しいです。
