
今回の書評は『疑う力 常識の99%はウソである 堀江貴文』だ。
ホリエモンが好きな人は本書の内容に賛同できるだろう。
ホリエモンが嫌いな人は本書の内容についてクソリプすればいいだろう。
内容としては現代の出来事についてホリエモン的な視点で疑問を投げかけるものとなっている。
堀江氏が日々ツイッターでツイートしていることを解説している本、と言ってもいいだろう。
堀江氏のツイッターをフォローしている人は、日々の氏のツイートの復習及び氏の考えを深く知ることに使えるはずだ。
「常識」をアップデートしたい人は是非この本を読もう。
「常識」を疑え。
情報操作と人質司法。東京地検は〝正義〟じゃない。

まだ起訴もされていないうちから人を犯罪者扱いするマスコミ報道は、「推定無罪」どころか「推定有罪」そのものだ。これが冤罪だったらどうやって責任をとるつもりなのだろう。
2018年11月19日、日産のカルロス・ゴーン氏が東京地検特捜部に逮捕されたが、その件で堀江氏は怒っている。
「またか」と。
これからの捜査の進捗を見てみないとわからないが、現時点では有罪か無罪かはわからない。
しかし、マスコミの扱いは完全に「ゴーン=悪者」「ゴーン=有罪」と決めつけて報道を行なっている。
これはゴーン氏に限らず、堀江氏や他の著名人の逮捕では、もはや当たり前となっている。
もしこれが冤罪だとしたら、マスコミはまた大々的に報道して視聴率を稼ごうとするだけなのだろう。
要は話題になればネタは何でもいいのだ。
いつも問題になるのは、報道の自由とプライバシーだ。
マスコミは報道の自由を楯に何でも報道する。だが、個人にはプライバシーが存在する。それは容疑者であってもだ。更に言えば犯罪者であってもだ。
だが今の状況ではマスコミは変わらないだろう。視聴率を稼がなければ飯が食えないからだ。
だから、報道を観る側の人間がじゅうぶんに注意しなければならないのだ。
報道一つひとつを疑ってかかり、その真偽を自分の目で確かめるしかない。
確かめられないものについては、安易にツイッター等で批判するのはやめたほうがいい。
わからないなら騒がない、これが大事だ。
マスコミは真偽のわからないものをわからないまま、わからない人向けに報道する。
だからそれぞれ解釈は違うし、穿った見方をする人があらわれ、事実が曖昧になり、混沌とする。
その渦に巻き込まれないよう、私たちは自己防衛しなければならないのだ。
組織も国家も民主主義より「ワンマン独裁制」のほうが改革は進む

民主的な集団指導体制は、だいたいうまくいかない。
独断でしか解決しない問題は山ほどあるのだし、権力者が正しいやり方で権力を行使すれば、組織は生まれ変わる。
私は多数決というものが嫌いだ。
会社や学校で何か決めるとき、多数決という手段を用いることがあるが、あれが私には意味不明なのだ。
大衆がいつも正しいとは限らない。むしろ誤っていることのほうが多い。
その大衆に判断を任せるということがどれほど無謀なことなのかわかっていないのだろうか。
何か物事を決める場合は、長期的かつ大局的な判断が必要になる。
短期的かつ短絡的な判断では、目先の利益に目がいってしまい、大抵は失敗となる。
だからときに独裁的な力が必要となる。
先見の明のある人間が長期的かつ大局的な判断をすることで、多くの大衆は結果的に救われることになる。
だが、会社で言えば無能な上司は自分で判断はせず、あたかも民主的に物事を決めている雰囲気を醸し、多数決にて決めようとするのだ。
これはただ単に自分の責任を回避しようとしているだけの臆病者だ。
ゆえにときに独裁的な力は必要となるというのが事実だ。
もちろん独裁的な力を暴走させないようなにかしらのセーフティーネットは必要になる。それは堀江氏も言っている。
暴走して戦争でも起こされたらたまったものではない。
そこまで行くのは極端な例だが、今後はいかに才能のある人に独裁的な力を持たせて、即断即決で物事を進めていくというのが、会社や役所などに必要になってくるだろう。
大衆に迎合するような政治家が出てくれば、それこそ日本の終わりだと思っている。
新幹線で座席を倒したいなら勝手に倒せばいい

日本には、礼儀もマナーもアップデートできていない輩が多すぎる。
堀江氏は新幹線で席を倒していいか聞かれることが嫌いとのこと。
理由は人の時間を奪うな、ということだ。倒したいなら勝手に倒せばいいと言っている。
礼儀やマナーというのはもちろん必要だ。だが昨今の日本は礼儀なマナーに対して過剰反応しているように思える。
何をするにもいちいち人の許可をとろうとするようになっている気がする。
これにはSNSの発達が一因として挙げられる。
ツイッター等を見れば、こんな無礼なヤツがいた、ということで礼儀マナーのなっていない人のエピソードや動画が公開されていたりする。
それを見て自分も気をつけなければと思うのは人の本能だろう。
自分も同じように晒されたら大変、と考えてまわりに必要以上に配慮しようとしてしまうのだろう。
日本古来の伝統や礼儀作法などはこれからも受け継いでいくものだし、多くの外国人にも知ってもらうのはとても良いことだと思う。
しかし、誰のための礼儀なのかというものは今後見直して改善していくべきだろう。
みんながやっているからなんとなくなる、というのが日本の良いところでもあり悪いところでもある。
協調性はときに正義に、ときに悪になる。
謎ルールはなくそう。そして、その礼儀やマナーが人の時間を奪っていないかを考えてみることが大事だ。
疑う力、おわりに
最後に、本について書かれた一節を紹介して締めるとしよう。
書評を書く身としては、引用しておきたい言葉だ。
本をバカにしている人は正真正銘のバカである。

しかし疑ってばかりではつまらないもの。
疑った末に何か信じるべきものを見つけたいものです。