
今回は、結婚において、配偶者は慎重に選ぶべきなのか、それとも、運命に身を委ね、一度結婚したらひたすら愛を注ぐべきなのかについて考察してみた。
結婚に踏み切れない人、または、結婚してから結婚生活に悩んでいる人、には何か参考になることがあると思う。
名著「思考は現実化する」の中に、誤った配偶者の選択は失敗を招く、とあったが、こちらも名著「7つの習慣」には、愛は動詞である、まずは愛することだ、と書かれている。
配偶者選びを誤ったとしても愛を行動で示すべきか否か。
選ぶべきかただ愛するべきか、なかなか考察の余地のある対比である。
— PANDA (@tsutomeninpanda) 2018年12月23日
本の中から言葉を引用して、それを頼りに言説を展開していこう。
誤った配偶者の選択は失敗の原因となる(思考は現実化する)


名著、ナポレオン・ヒル著の「思考は現実化する」の中にこんな記述がある。
これは「失敗を招く30の原因」の中のひとつの原因として紹介されているものだ。
誤った配偶者の選択
人が失敗する最大の原因の一つは 、配偶者選びの間違いにある 。あらゆる人間関係の中でも 、結婚は親密度が最も濃いものである 。二人の関係がうまくいかなければ 、失敗は必ずやってくる 。しかも 、その失敗は惨めであり 、ヤル気を失わせるものだ 。
ナポレオン・ヒル氏いわく、配偶者選びに失敗していたらその後の成功はない、ということを「思考は現実化する」などの著書の中で説いている。ナポレオン・ヒル氏自身も、妻や継母の慈愛があったからこそ成功したと言える。仮に別の妻を迎えていたとしたら莫大な富を築いていたかどうかはわからない。
このナポレオン・ヒル氏の言葉を見て、「それはおかしい」「努力が足りないからだ」という意見を持つ人もいるだろう。もちろん、結婚生活の危機は努力で乗り切ることができることもあるだろう。そういった夫婦もたくさんいることは間違いない。
だがここでは、配偶者選びが正しければ成功の階段をあがりやすくなる、という点がポイントだ。仕事をしながら夫婦間の問題を同時に解決していくのは誰でもやっていることだが、問題はそのバランスだろう。
仕事9、夫婦間1であれば、成功には近づきやすい。しかし、仕事1、夫婦間9のバランスで労力や時間を割く必要がある場合、成功へと近づくにはどのくらいの努力が必要だろうか。あなたはそれができるだろうか。ナポレオン・ヒルはこの点を言いたいのだと思う。
夫婦間の問題において、努力しない人はほぼいないだろう。それぞれが考えうる範囲で問題を解決しようと努力するはずだ。どの努力が続けられる人もいれば、すぐに息切れしてしまう人もいるだろう。それはもうその人の性質であり、個性であるため無理強いしてもうまくはいかない。
努力は重要。だが配偶者選びはもっと重要、ということだ。
ただここでひとつ注意したいのは、「成功」という定義は人それぞれ違うということだ。仕事がうまくいき、多額の報酬を得ることが成功なのか、それとも、仕事はほどほどにして家庭のことに多くの時間を使うことが成功なのか、これは人によって異なる。千差万別であることは付け加えておこう。
愛は名詞ではなく動詞である(7つの習慣)


次は、こちらも名著、フランクリン・R・コヴィー氏の「7つの習慣」から愛に関して引用してみよう。
以下はコヴィー氏のセミナーに参加したある男性からの話だ。
あるセミナーで主体性について講義していた時、ある男性が前に出てきてこう言い出した。
「先生のおっしゃっていることはよく分かるんですが、人によって状況はすべて違うんですよ。例えば、私の結婚を考えていただけますか。不安でたまりませんよ。妻と私は昔のような気持ちがもうないんです。私は妻とを愛していないし、妻も私のことなんか愛していません。こんな状態で何ができるって言うんですか」
「愛する気持ちをもう失ってしまったんですね」と訊くと、
「そうです」と彼は答え、「子供が三人もいるのてま、とても不安なんです。どうしたらいいでしょうか」
と続けた。
「奥さんを愛しなさい」と私は返事した。
「ですから、今言ったでしょう。その気持ちはもうないって」
「だから、彼女を愛しなさい」
「先生は分かっていない。愛という気持ちはもうないんです」
「だったら奥さん。愛すればいいんです。そうした気持ちがないのだったら、それは奥さんを愛するとても良い理由になりますよ」
「でも、愛情を感じないとき、どうやって愛すればいいんですか」
「愛は動詞である。愛という気持ちは、愛という行動の結果にすぎない。だから奥さんを愛しなさい。奥さんに奉仕しなさい。犠牲を払いなさい。彼女の話を聴いてあげなさい。感情を理解してあげなさい。感謝を表しなさい。奥さんを肯定しなさい。そうしてみては、いかがですか」
おわかりだろうか。ここでは配偶者選びがどうという話ではない。愛は動詞であるからまずは愛という行動を起こせ、とコヴィー氏は言っているのだ。
どちらかと言えばこちらのほうが受け入れられやすい考えではないだろうか。配偶者選びというどこか冷めたものよりも、愛は動詞である、という言葉のほうが批判は少なく受け入れられやすいはずだ。
では、実際にどうだろうか。仮にあなたが配偶者もしくは恋人を愛していないとする。愛がないから行動によって愛を示す、これができるだろうか。おそらく愛は動詞と理解し、それを行動にし続ければ相手も行動を変えるかもしれない。相手から名詞ではなく動詞である愛の表現を受けとることができるかもしれない。
大事なのは愛し続けること、だ。
あなたが愛していない人から一度だけ愛ある行動を示されたとしてもそれは心に届かないだろう。その愛は本物かどうか確かめる必要があるからだ。そこで繰り返し愛を表現されれば、それはやっと相手に伝わるのだ。
だが人間にとってこれは難しいことではある。愛情がなくなった、と思える相手に改めて愛を表現するというのはかなりハードルが高い。そこにはプライドや恥ずかしさがあり、愛ある行動へと踏み出せないのだ。
また、本当は別れるべき相手へ、ひたすら盲目的に愛を示すというのも間違っているだろう。それは相手もろとも奈落の底へ落ちていくことになる。
まとめ
では、配偶者を慎重に選ぶべきか? 運命に委ねてひたすら愛すべきか?、のどちらが良いのか、私なりに解答を示して締めるとしよう。
どちらか選べと究極の選択を迫られたら「配偶者を慎重に選ぶ」にするだろう。だが、やはり大事なのはバランスであろう。
まとめると以下のようなものになるだろう。
・配偶者を選ぶときは自分との相性を見極める(ただ好意だけで選ばない)
・自分も相手から選ばれる側だということを忘れない(上から目線にならない)
・愛する努力をする(ただなんとなく相性が良いだけでは続かない)
・相手の愛情表現はしっかり受け止める(愛され上手になる)
・傷つけられるなど、完全に配偶者選びに失敗したとわかったら、身を引く(惰性にまかせない)
最後に思うことは、選んだ配偶者とのあいだに何か亀裂が入ったとしてもひたすら相手を愛することができたら、すばらしいと思う。選ぶことは大事だが、盲目的に誰かを愛することが、実は自分が幸せになるいちばんの方法なのかもしれない。
