
今回の書評は『読書という荒野 見城徹著』だ。
見城氏は幻冬舎の社長だ。メディアにも多数出ているから知っている人は多いだろう。出版社の社長が自ら著書を出版したのだ。読まない手はない。
帯の秋元康氏のコメントにはこう書かれている。
「見城徹の読書は血の匂いがする」
気になった人は読むべし。
Contents
見城節、人間を人間たらしめるのは言葉だ

言葉を持たない人間は 、たとえ人の形をしていても 、動物と何ら変わりはないと僕は考える 。赤ん坊は言葉を持たない 。だから赤ん坊には人生や世界がない 。人間を人間たらしめるのは言葉だ 。では 、人間としての言葉を獲得するにはどうすればいいのか 。それは 、 「読書 」をすることにほかならない 。
言葉を自在に操ることができる人が、人生や世界を獲得するということだ。それはより洗練されればされるほど自分の人生や世界を確立することができる。
本を読まなくても言葉を紡ぐことができる人もなかにはいるだろう。だがそれは稀だろう。それはよっぽどの人生経験を積まないと到達しない境地だ。
常人であればやはり読書をすることでしか、自分の言葉を獲得し、自分の世界を確立することはできないのだ。
見城氏ほど読書に対して真正面から向き合う人はいないかもしれない。秋元氏の言葉にもあるように、血や汗や涙を流しながら歯を食いしばるように活字を追っている姿が目に浮かぶようだ。
見城氏を見ていると思う、読書とは格闘なのかもしれない。
見城節、自己検証 、自己嫌悪 、自己否定の三つがなければ 、人間は進歩しない

僕はかねがね 「自己検証 、自己嫌悪 、自己否定の三つがなければ 、人間は進歩しない 」と言っている 。自己検証とは 、自分の思考や行動を客観的に見直し 、修正すること 。自己嫌悪とは 、自意識過剰さや自己顕示欲を恥じ 、自分の狡さや狭量さ 、怠惰さに苛立つこと 。そして自己否定とは 、自己満足を排し 、成長していない自分や 、自分が拠って立つ場所を否定し 、新たな自分を手に入れることだ 。
自己検証、自己嫌悪、自己否定、この3つは人が嫌がるものの代表格だろう。人は自分自身で自分の心を傷つけることは本能的に避けるはずだ。
だがそれをあえてやれと見城氏は言う。見城氏はこれらを今までやってきたのだ。その証拠はあの顔に刻まれている。修羅場をくぐり抜け、自信を獲得した目をしている。
今にも誰かに噛みつきそうなほど、内に秘めた熱量を持っていることがわかる。
さて、では常人である我々は自己検証、自己嫌悪、自己否定、この3点セットをどの程度できるだろうか。
今の時代、自己否定よりも自己肯定をするべき、と言われている世の中だ。そのほうが楽だし、そのほうが幸せだからだ。
だが何かを成し遂げるためには、自分の心ととことん向き合うことが必要なのだ。
あなたにはそれはできるだろうか。
何かを得るためには自分の心を探求し、新たな世界に踏み込まなければならないのだ。たとえそこで地獄であろうとも。
見城節、教養とは単なる情報の羅列ではない

教養とは 、単なる情報の羅列ではない 。人生や社会に対する深い洞察 、言い換えれば 「思考する言葉 」にほかならない 。
僕が考える読書とは 、実生活では経験できない 「別の世界 」の経験をし 、他者への想像力を磨くことだ 。重要なのは 、 「何が書かれているか 」ではなく 、 「自分がどう感じるか 」なのである 。
速読で多くの本を読んだという話を聞くが、私は速読自体は否定しない。速く読める人は速く読めばいいし、読むのが遅い人は自分のペースで読めばいいと思う。
どれだけたくさんの本を読んだとしても、何も感じなかったとしたら読書の意味がないだろう。どれだけ読むのが遅くとも、多くのことを感じ取ることができたのならそれでいいのだ。
足が速い遅いがあるように、人間には能力の差がある。問題は速さではない。どれだけ心が動いたか、である。
読書する際は、思考しながら読む、メモを取りながら読む、これを意識するだけで読書の質は変わるはずだ。
読書という荒野、おわりに
最後に「おわりに」から一文引用して締めるとしよう。
「一期は夢よ 、ただ狂え 」僕の敬愛する作家 、団鬼六がよく使っていた言葉である 。人生は短く 、一瞬で消える夢のようなものだ 。だから真面目くさって生きるのではなく 、ただ狂って色濃く生きればいい 。
