【考察】「正論」に埋もれてしまう現代人の病を「正論疲れ」と名付けよう。正論には純粋さと狡猾さと甘い蜜のような魅惑がある。

「正論疲れ」について語るパンダ
 
パンダ
正論って一体なんなんだよ。

最近、SNSでやたらと目にする言葉、「正論」について書いてみたいと思う。

「正論」の意味は、そのまま言えば「正しい論調」ということになるだろう。だが、ひと言では表せない闇がこの「正論」という言葉にはある。

例えば、「ブラック企業はすぐに辞めるべきだ」という意見。ただこのひと言だけをとって、正しいを決めるにはいささか情報が少なすぎる。仮に、ブラック企業に勤めていて残業が100時間を超えていて身体だけでなく精神まで壊しそう、というならばそれは辞めるべきだろうと思う。でも、ただ単に会社がブラックで上司がバカだから辞めたい、というのはまた違うと思う。それは会社に問題があるのはそうなのだろうが、その本人自身に問題がないともいい切れない。

ならばまずやるべきは自分の行動を改めることから始めなければならない。こう書くと、ならまずはブラック企業を辞めてから、と言う人が出てくるが、そう簡単に転職はできないし、できたとしてもそれがその人にとってハッピーなのかはわからない。今の会社に残ることがその人にとって、もしかしたら最適解かもしれないのだ。それなのにインフルエンサーの煽りによって、勢いで会社を辞めてしまうのは勇み足と言わざるを得ない。

会社を辞めてもどうにかなるかもしれない。でも、どうにもならない場合もあるのだ。その責任は誰が取るのか。インフルエンサーがとってくれるわけもない。煽られたとしてもその責任は本人が取る以外に方法はないのだ。だから、「正論」に惑わされないよう注意をしなければならないのだ。特に弱者は。

正論には2種類あると思う。ひとつは「弱者を守るための正論」、もうひとつは、「自分のポジションを守るため誰かの意見にマウンティングする正論」。

弱者を守るための正論というのは、絶対的に必要なものだ。だがもうひとつの、自分のポジションを守るため誰かの意見にマウンティングする正論、というのは必要性は低い。もちろん、必要な反論もあるだろう。元の発信者がおかしなことを言っていればそれは批判するべきだし、撤回なり修正をさせるべきだと思う。しかし、えてしてこの手の正論は、自分のことしか考えていないことが多い。

更にやっかいなのは、「自分のポジションを守るため誰かの意見にマウンティングする正論」を発している人が、「弱者を守るための正論」だと思って発していることが往々にしてあるということだ。もちろん、どちらの要素を含んでいる論もあるだろう。それはわかっている。しかし、立場の違いによってその「正論」は内包する意味がまったく変わってくるという点に注意しなければならない。

だから、「正論」はやっかいなのだ。

今は昔と違い、SNSが張り巡らされ、いつでも誰とでもつながれる世の中になってしまった。それはよろこばしいことだ。だが、それだけ利便性が高まればデメリットも多く発現するのは言うまでもない。いつも誰かの意見に脳を支配されている状態のため、何かいつもと違う意見、「正論」にぶちあたったとき、脳は過剰反応してしまうことがあるのだろう。「ちょっと待て!それはちがう!!」と。

そして、そのやりとりを他の第三者が目にする。そのネタは広がる。炎上する。誰かが傷つき、誰かが損をして、誰かが得をする。それゆえに、疲れるのだ。身体も心も。

これを私は「正論疲れ」と呼ぼうと思う。

「正論」ばかりに触れていては、いつのまにか何が正しいのかわからなくなってしまうかもしれない。そうならないよう、自分の意見を持った上で現代社会という冒険に挑まなければならない。何も武器を持たずに外に出ればザコキャラでさえ倒せない。それではあなたは幸せになることはできない。

大事なのは、「正論」を振りかざしたモンスターたちに、「ド正論」をぶつけ退治できるかどうかにあなたの価値はある。「正論」という名のラスボスに勝つために、自分自身の意見として「ド正論」という武器を持とう。

以上。

パンダ
オイラに正論ぶつけても、超ド正論で返してギッタンギッタンにしてやるからな。