
まず、著者についてですが為末大氏をご存知だろうか?
陸上選手だった人だよなぁ、と思い出すことができる人もいると思うが、ここでちょっと著者のご紹介を。
1978年広島県生まれ。2001年エドモントン世界選手権および2005年ヘルシンキ世界選手権において、男子400メートルハードルで銅メダルを勝ち取る。陸上トラック種目の世界大会で日本人として初のメダル獲得者。シドニー、アテネ、北京と3度のオリンピックに出場。現在は、一般社団法人アスリート・ソサエティ、為末大学などを通じ、スポーツと社会、教育に関する活動を幅広く行っている。
元オリンピック選手が本を出すというイメージがあまりなかったため期待せずに読んだが、とても読みやすく内容も腑に落ちるものばかりだった。
現在はスポーツに関する事業を請け負う株式会社侍を経営している。
そのほかにも、書籍だけでなくブログやツイッターなどで常に意見を発信している。
またJリーグの非常勤理事も務めるなど、スポーツの発展に貢献している人なのだ。
為末さんは仮に陸上をやっていなくても他の分野でも十分成功したのではないかと感じるほどの多才ぶりだ。
「諦める」は「明らめる」
あなたは、「諦める」という言葉にどんなイメージを持っているだろうか?
本書の中にはこう書かれている。
「諦める」という言葉の語源は「明らめる」だという。仏教では、真理や道理を明らかにしてよく見極めるという意味で使われ、むしろポジティブなイメージを持つ言葉だと言うのだ。そこで、漢和辞典で「諦」の字を調べてみると、「思い切る」「断念する」という意味より先に「あきらかにする」「つまびらかにする」という意味が記されていた。それがいつからネガティブな解釈に変化したのか、僕にはわからない。しかし、「諦める」という言葉には、決して後ろ向きな意味しかないわけではないことは知っておいていいと思う。
諦めるという言葉が明らめるというプラスの意味に捉えられるようになれば、今の世の中はもう少し生きやすい世の中になるかもしれない。
物事を途中でやめるということは、一般的に「悪」として捉えられる。
しかし、意味のないことを惰性で続けていてもそれは「正義」とは呼べず、それこそ「悪」なのではないかと思う。
仕事においてもプライべートにおいても、今自分がやっていることを「あきらかに」して、進んでいる方向が間違っていればすぐに修正する、そうしていくことが大事なんだろう。
為末さんはこのようにまとめている。
「自分の才能や能力、置かれた状況などを明らかにしてよく理解し、今、この瞬間にある自分の姿を悟る」
人生は可能性を減らしていく過程
人生は可能性を減らしていく過程でもある。年齢を重ねるごとに、なれるものやできることが絞り込まれていく。可能性がなくなっていくと聞くと抵抗感を示す人もいるけれど、何かに秀でるには能力の絞り込みが必須で、どんな可能性もあるという状態は、何にも特化できていない状態でもあるのだ。できないことの数が増えるだけ、できることがより深くなる。
人間は物心ついたときにはすでに剪定がある程度終わっていて、自分の意思で自分が何に特化するかを選ぶことができない。いざ人生を選ぼうというときには、ある程度枠組みが決まっている。本当は生まれたときから無限の可能性なんてないわけだが、年を重ねると可能性が狭まっていくことをいやでも実感する。最初は四方に散らかっている可能性が絞られていくことで、人は何をすべきか知ることができるのだ。

大人になればあとは残された可能性に絞ってがんばっていくしかない、そういう覚悟が必要なのかもしれない。
大人になってから周りから、がんばれ、がんばれば9秒台で走れるぞ、なんて言われてもそんなの無理なわけで、こういった周囲の励ましというかおせっかいというか、そういったものは殊の外多い気がする。
言っている方は一切悪気はないのかもしれないが、悪気のないおせっかいというものは、トゲだらけのぬいぐるみのようにやさしそうでまったくやさしくないものなのだ。
「可能性が絞られている」などというと夢想家たちが怒りだしそうですがこれは厳然たる事実だと思う。
なれないものにいつまでもしがみついているあいだに、なれそうなものの可能性がいつのまにか消えてしまうのは非常にもったいないことだ。
なので、自分の可能性を見極めるということがかなり重要になる。
ただ、なれるかどうかわからないけど自分がなりたいと思っているもの、があるのであれば結果は考えずがむしゃらにそれを目指してみるというのも有りであるとは思う。
おまえがなれるわけないだろ!
北野武さんが、あるインタビューでこんな話をしていた。子どものころ、武さんが何かになりたいと言ったとき、武さんのお母さんがこう言ったそうだ。
「バカヤロー。おまえがなれるわけないだろ!」
武さんは、お母さんのことを「ひどいことを言う母親だろ?」とは言わず、「そういう優しい時代もあったんだよ」と言った。
何にでもなれるという無限の可能性を前提にすると、その可能性をかたちにするのは本人(もしくは親)の努力次第といった話になってしまう。しかし「おまえはそんなものにはなれない」という前提であれば、たとえ本当に何者になれなくても、誰からも責められない。もしひとかごの人間になれたら、「立派だ、よくやったな」と褒められる。武さんはそれを「優しさ」と言ったのではないだろうか。
親の立場で「おまえがなれるわけないだろ」と子どもに言うというのは、なかなか難しいことではないだろうか。
自分の子どもであれば、「がんばればきっとなれる」などと言ってあげたくなる。
これはどっちが正しいかわからないな。
応援すれば子どもがなりたいものになれるかもしれないし、応援したことで子どもが余計なプレッシャーを感じて潰れてしまうこともあるかもしれないから。
でも、何でもかんでも「がんばれ」という意味のことを言われたら疲弊しますが、「おまえはそんなものにはなれない」と言われたら楽かもしれない。
何者になれなくても、お前はそのままでいい、というメッセージを発信することになるのだろう。
最後に
最後に「おわりに」から引用して締めたいと思う。
なぜだか自分という人生を生きる羽目になったのだから、思いっきり生きたらいいと思うだけだ。最後には死んでチャラになるのだから、人生を全うしたらいい。そしてそこに成功も失敗もないと思う。たかが人生、されど人生である。人生が重すぎるのであれば、仕事に置き換えてもいい。就活でもいい。
「たかが仕事じゃないか」
「たかが就活じゃないか」
為末さんが言いたいことをひと言にまとめるとこんな感じだろうか。
