【盲目的な生き方のススメ】現代の世界を斜に見て考えた本当に人間が幸せになるための方法。

盲目的な生き方のススメ
パンダ
今回は「生き方」についての考え方をまとめてみました。

今回は、常に変化を続ける現代をしあわせに生き抜くための方法について書いてみようと思う。

お題は「盲目的な生き方のススメ」とした。

これに関連する記事をいくつか書いていけたらと思う。

非常に現代は生きにくい時代だと思う。

様々なものが進歩し、生活は豊かになったとは言え、それとは逆に精神的に追い込まれることが多く、しあわせを感じづらいのではないだろうか。

そこで私からは今の時代にあった生き方というのを提案してみたいと思う。

 

まずタイトルにある「盲目的」という言葉について書いておこう。

本来「盲目的」とは以下のような意味だ。

感情や衝動に引きずられて、理性や分別を欠くさま。

よく聞く言葉で「恋は盲目」とあるが、これはひとりの人に恋をして他の人がまったく目に入らない状態を言う。

私がこの記事で使う「盲目的」という言葉は、「視点を絞り、なるたけ必要なところだけを見るようにする」という意味で使っている。

差別的な意味合いはまったく含んでいないし、理性が抑えられず暴走してしまう、というような意味でもないことは書き添えておこう。

それでは本文に入るとしよう。

【盲目的な生き方のススメ】1、人を助けない

街中で女性が男性たちにからまれていた場合、どうするべきか。

あなたはどうするだろうか。

最善の答えは、見て見ぬ振りをする、である。

そんなのが最善の答えのわけがないだろうと思っただろうか。

冷たいと思っただろうか。

そこで助けなければその女性はそのあと命を落としてしまうかもしれない。

はたまたどこかへ連れ込まれて監禁されるかもしれない。

ただそれはあくまで可能性の問題だ。

放っておけば数分後には解放されるかもしれない。

その心配は杞憂で終わるかもしれない。

でも、そんな場面に出くわしたら、助けなくてはという心理が働くだろう。

だがそれは突き詰めると、その女性を心配しているのではなく、見て見ぬ振りしたところを周囲の人に見られたらどうしようと自分自身を心配しているに過ぎないのだ。

心から相手を心配することなど人間にはできないらしい。

涙を流すときも、相手がかわいそうだから泣くのではなく、そんな状況に置かれた自分がかわいそうで泣いているのだ。

必ず自分の保身が行動には反映される。

だから、止めには入らないが、「どうしよう」と心配した振りだけをする人間が出てくる。

無視せず心配した振りをしておけば、自分の面目が保たれるからだ。

しかし助けに入った場合、最悪の場合、自分が命を落とす可能性がある。

そこで死んでしまったとしたらそれは正しい行動と言えるだろうか。

あなたが死ねば悲しむ人がいるはずだ。

妻や夫、息子や娘、母親や父親、親戚や友人、会社の同僚、様々な人の顔が浮かぶはずだ。

その正義感は正しいと心から言えるだろうか。

だからここで言いたいのは、自分の保身でなく心から助けたいと本当に思うのであれば助けるべきであるが、そうでないならば助けることはやめた方がいいということだ。

あなたには大きな力はない。

私たちには小さなことしかできないのだ。

目に止まる人たちを助ける前に、やるべきことがあるのではないか。

あなたは、あなた自身とあなたの半径数メートルにいる身近な人を守る義務があるのだ。

誰もかれも救えるようなスーパーマンはこの世にはほぼいない。

自分の身をわきまえて、適切な行動をとることがしあわせになる道だ。

誰を守るべきなのか、一度視点を絞って考えてみることをオススメする。

人生は短く、一緒に居られる時間も限られているのだから……。

パンダ
次は何について書こうかなぁ。

【盲目的な生き方のススメ】2、よろこびもかなしみも同じこと

よろこびとかなしみは同じことという話をしようと思う。

人間であればかなしみよりもよろこびを多く感じたいと思うのが普通だろう。

みんなそう願うがそううまくはいかない。

人生というのは思い通りにいかないものだ。

人生でよろこびのほうが多い人もいるだろうが、ほとんどの人がかなしみのほうが多いはずだ。

楽しいことや嬉しいことだけで人生が構成されることはない。

それは、よろこびを感じてしまうと今までよろこびと感じていたものが、いつしかかなしみにとってかわることがひとつの要因でもある。

自分の立ち位置が変わってしまえばよろこびやかなしみの感じ方が変化するからだ。

今までは見上げていたものが、いつしか自分の足元にあったりするのだ。

そうなると幸せの基準というものをどこに置けば良いかわからなくなる。

わかりやすい例をあげると、今まではお金がなくて買えなかった車があるとしよう。

お金を稼ぎその欲しい車を手にすることができた。

しばらくはその車を所有していることがよろこびとなるが、いつしかそれでは満足できなくなる。

もっと高い車が欲しくなるからだ。

そしてまたがんばって高い車を買う。

すると前に乗っていた車はよろこびにつながるものとは言えなくなる。

自分の立ち位置が変わり、よろこびの基準が変わってしまうからだ。

人間はこういった思考を繰り返す。

ゆえによろこびとかなしみは似たもの同士であり、表裏一体なのだ。

世の中は、プラスとマイナスでできているのだと思う。

同じ値でプラスとマイナスがあれば結果はゼロになる。

よろこびがあればかなしみがあり、世の中はバランスをとろうとしてゼロにするのではないか。

よろこびを感じたあとにかなしみを感じたことはないだろうか。

かなしみを感じたあとによろこびを感じたことはないだろうか。

多少の時差はあるだろうが、これはセットなのだと思う。

プラスマイナスはセットで私たちに用意されていて、結果ゼロになるようになっているのだ。

ここでビックバンの話をしよう。

宇宙はビックバンにより誕生したという。

私はこの考えがいまいちしっくりこない。

完全な無から爆発が起こり、この宇宙が誕生したというのだ。

まったく何もないところから爆発が起こるだろうか。

それは無とは言えないのではないだろうか。

おそらくそうした考えでもしないと宇宙の誕生が説明できないほど、人間にはまだ宇宙を解明できていないということなのだろう。

そこで至った結論はこの世を数字で表すなら、ただの「ゼロ」ではなく「1ひく1はゼロ」ということだ。

良いことがあれば悪いこともある。

その差引は必ずゼロになるようになっているのではないか。

良いことがあったあと悪いことがあったことはないだろうか。

逆に悪いことがあったあと思いがけず良いことがあったことはないだろうか。

ほとんどの人がどちらも経験いていると思う。

たまについてない人は悪いことが重なることはあるだろうが、それでも数年先は良いことが続くということが往々にしてあるのだ。

もっと言えば、この世はばらばらではなく、70億人でひとつなのだ。

もっと言えば、人間だけでなく動物や植物などすべてのものを含めてひとつなのだ。

だから良いと言われる人生を送る人もいれば、最低の人生を送る人もいる。

それはふたりで差し引きゼロになるのだ。

だからこの世に無というものは存在せず、必ずプラスとマイナスが背中合わせで存在しているのだ。

光がなければ闇もない。悲しみがなければよろこびもない。

世界は必ず一対で、必ず「1ひく1はゼロ」の数式が成り立つようになっているはずだ。

これならば、この世の誕生も納得がいく。

この世は無ではない、永遠なのだ。

永遠に差し引きを行うことでバランスを保っているのだ。

だから結局人生はプラマイゼロになるようにできている。

それはこの次元の厳然たるルールだ。

この次元の変えることのできない定理なのだ。

だが、、、

その定理に逆らってみようではないか。

悪いことがあればかなしむのではなく、かなしみを恩恵と捉え、よろこびへと変換する。

するとプラマイゼロだったものが、わずかにプラスに傾く。

生をまっとうした瞬間に少しでもよろこびが勝っていれば、良い人生だったと言えるのではないだろうか。

そういった生き方がこんな世の中を楽しむ、唯一の術なのではないだろうか。

パンダ
あなたは何によろこびを感じますか?

【盲目的な生き方のススメ】3、事件事故は気にしない

今や世界中で起こる事件事故のニュースを瞬時に得ることができる時代となった。

これはとてつもないことだと思う。

地球の反対側で起こったことでさえ、知ろうと思えば数分後に知ることも可能なのだ。

だがこの技術の進歩が人間のためになっているかどうかという点は甚だ疑問である。

世界的な情勢の変化や、災害、疫病、不況、これらはもちろん知る必要があると思う。

しかし、なんでもかんでも知る必要もにないと思う。

少し冷たい言い方になるが、他国で事故が起こってそこで誰かが命を落としていたとして、それを日本にいる私たちが知ったところでどうなるのだろうか。

助けることもできないし、手を差し出すこともできない。

ただ悲惨な事故を見て悲しむことしかできないのだ。

それであれば自分の感情を最優先するならば、嫌なニュースなど見るべきではないのだ。

わざわざ暗い気分に自分を追い込む必要はないからだ。

身近で起こった事件事故なら見る必要はある。

それを知ることで対策ができるからだ。

しかし、遠い国での事故などおそらく参考にはならない。

知ったところで得るものがないはずなのだ。

だから他国の事件事故など知る必要がないというのが私の考えだ。

人間は本来、自分の身近にいる人間のことだけを考えて生きて行けばいいのだ。

原始時代、自分が守れるのは自分の目が届く範囲だけだったはずだ。

それは今の時代も変わらない。

自分の半径数メートルにいる人間を守れればそれでいいのだ。

むしろそれさえできなければ誰も幸せにすることなどできないはずだ。

遠いところで苦しむ人に思いを馳せることは悪いことではないが、その想いは身近にいる大事な人に使えば、その人を今以上に幸せにしてあげることができるかもしれない。

ならば、その愛は遠くにいる人ではなく身近にいる人のために使うべきなのだ。

情報化社会により、苦しんだり悲しんだりしている人がいろいろなところにいることを知ってしまう。

人間は誰か苦しんでいる人がいれば助けたくなるのが本能なのだ。

だからそう思わないよう、不必要な情報は遮断して、自分の身の回りに意識を集中すべきである。

考え方として大事なのは、

あなたがプラスの感情を持つことが世界にとってプラスになるということ。

ありえない前提の話だか、全員が人間なんて死んでしまえばいいと思っていたら人類は滅亡する。

この世界では命を引き継ぎ続けていくことが正しいのだ。

ならば少しでもプラスの感情を持つことが世界のためにはなるのだ。

それには、情報の波に飲まれないよう意識し、事件事故はなるべく見ない。

事件事故のニュースを見てしまったとしても、必要以上に気にしない。

自分には何もできないことを悟り、まずは自分ができることに意識を集中する。

これがこの情報化社会で幸せになる方法である。

パンダ
さて、ツイッターでニュースでも見るか(すでにツイ廃)。

【盲目的な生き方のススメ】4、コントロール欲を捨て去る

人間は他人を自分の思いどおりに動かしたいと思っている。

これが誰もが持っている欲求である。

普段誰にどうしてほしいと思っているか、一度考えてみてほしい。

おそらく色々な人の顔が浮かんだはずだ。

仕事で言えば、部下をどうしたら思い通りに動かすことができるだろうか、と考えたり、逆に上司をどうやってうまく使おうかと考える人もいるだろう。

結婚していれば、夫に家事をさせたいがうまくいかなかったり、妻とお金のことで意見が合わなかったり。

恋愛で言えば、好きな人が振り向いてくれずどうにもならなかったり、彼氏彼女が自分のことを理解してくれなかったり。

子育てで言えば、子どもに勉強をさせたいが言うことを聞いてくれず教育方法に悩んでいたり。

人間誰しも自分が正しいと思って行動しているのだ。

ゆえに誰かを自分の思い通りに動かしたいと思っている。

だがそれは間違っているのだ。

あなたは誰かの言う通り、何もかもすべて行動を相手に合わせることができるだろうか。

それはできないだろうし、そんな生き方は嫌だろう。

誰もがそう思っているのだ。

だからここで断言しよう。

誰かをコントロールしようとすることは今日限り、金輪際やめることであなたは幸せになれる。

なぜかと言えば、誰かをコントロールしようとしているとき、相手のことばかり考えてしまい自分のことをおろそかにしてしまうからだ。

ラジコンを思いうかべてほしい。

ラジコンを走らせているとき、コントローラーを両手で持つはずだ。

コントローラーを両手で持っているときは他のことができない。

それと同じで誰かをコントロールしようと常に考えていては、自分の手が空かないため、他のことができないのだ。

一生誰かをコントロールしつづけたいならいいが、そうではないだろう。

何よりも自分の人生が大事なはずだ。

盲目的になり他人のことには目を向けず、自分のことに集中するべきなのだ。

ずっとは難しいだろう。

ならば一定期間、コントローラーを持つことをやめてみよう。

手を自由にして、他のことに集中しよう。

そうすると気づくはずだ。他人をコントロールする必要がないことに。

子どもを持つ親からは、子どもはコントロールしてあげないといけない、と言うかもしれない。

もちろん子どもが間違った道にいかないようにしてあげることが親として最低限やるべきことだ。

だが子ども親が自分をコントロールしようとしていることには気づいている。

だから、ダメとかやめてという言葉に過剰に反応し、あえて反発して見せるのだ。

親が子どもをコントロールではなく見守る姿勢でいれば、子どもも無駄に反発することはなくなるはずだ。

誰もコントロールされたいと思っていないし、誰も本当はコントロールしたくはないのだ。

他人に過度に干渉するのをやめたとき、人は本当の意味で自由になるのだと思う。

パンダ
さあ、両手を自由にして自分のやりたいことをやろう!